https://www.tokyo-np.co.jp/article/296493
戦争を肯定する社会は、差別を正当化する社会に戻っていく
人類館事件を「昔の話」で終わらせてはいけない
1903年、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の周辺で、「学術人類館」と呼ばれる見世物が設けられた。
そこでは、沖縄の人が「琉球人」として、アイヌ、台湾先住民、朝鮮人、清国人、ジャワ人などと並べられ、まるで珍しい生き物や異民族の標本のように扱われた。
現在、この出来事は「人類館事件」と呼ばれている。
これは単なる過去の差別事件ではない。
当時の日本社会が、戦争と植民地支配を肯定し、国家の拡張を「文明化」や「国益」の名で正当化していた時代に起きた事件である。つまり、人類館事件は、たまたま一部の悪趣味な人間が起こした見世物ではない。
国が強くなればよい。
日本が勝てばよい。
外側にいる人間、周縁にいる人間、少数者は「遅れた存在」として扱ってよい。
そういう空気が社会に広がったときに起きた、極めて象徴的な事件だった。
戦争を肯定する思想は、単に「軍備を強くしよう」という話だけでは終わらない。
戦争を肯定する社会では、まず「敵」が作られる。
次に「敵に近い者」が疑われる。
そして「国家にとって役に立つ人間」と「そうでない人間」が分けられる。
この分け方が始まったとき、人間の尊厳は簡単に崩れていく。
沖縄の人を「琉球人」として見世物にした発想も、根っこにあるのは同じである。
相手を一人の人間として見るのではなく、国家や学問や文明の側から、一方的に分類し、観察し、評価する。
「この人たちは遅れている」
「この人たちは珍しい」
「この人たちは本土とは違う」
「だから見世物にしてもよい」
そういう論理である。
これは現代の感覚から見れば異常だ。
しかし、当時はそれが「学術」や「博覧会」や「文明」の名で行われた。
ここが恐ろしい。
差別は、いつも差別という顔をして現れるとは限らない。
ときには「学問」の顔をして現れる。
ときには「国益」の顔をして現れる。
ときには「伝統」や「安全保障」や「秩序」の顔をして現れる。
続く
人類館事件を見て、「昔の人はひどかった」と言うだけなら簡単である。
しかし、本当に問うべきなのは、
なぜ当時の社会は、それを許してしまったのか
という点である。
見世物にした人間だけが悪かったのか。
それを面白がって見に行った人間は無関係だったのか。
止めなかった社会は無関係だったのか。
「そういう時代だった」で済ませてよいのか。
私は、そうは思わない。
社会全体が戦争や植民地主義を当然のものとして受け入れたとき、人間を人間として扱う感覚は鈍っていく。
「国家のため」
「文明のため」
「日本の発展のため」
「安全のため」
そういう大きな言葉の前で、個人の尊厳が後回しにされる。
その結果、ある人たちは「守るべき国民」とされ、ある人たちは「見下してよい存在」とされる。
人類館事件は、そのような社会の空気が生んだ事件だった。
戦争を美化する言葉には、差別を復活させる力がある
現代でも、戦争を美化する言葉は少しずつ聞こえてくる。
「昔の日本は強かった」
「戦前の日本には誇りがあった」
「国のために命をかけるのは美しい」
「平和ばかり言っていては国を守れない」
もちろん、安全保障を考えること自体が悪いわけではない。
現実の国際情勢を見れば、防衛や外交について真剣に議論する必要はある。
しかし、問題はそこから一歩進んで、戦争そのものを美化し、過去の加害や差別を軽く扱う空気である。
戦争を肯定する社会は、必ず「強い国民像」を求める。
その反対側で、「弱い者」「異質な者」「従わない者」が邪魔者扱いされる。
沖縄、アイヌ、在日外国人、移民、障がい者、貧困層、思想の違う人々。
こうした人たちは、国家中心の空気が強まる時代ほど、攻撃や排除の対象になりやすい。
人類館事件のようなことは、もう二度と起こらない。
そう信じたい。
続く
「また同じことが起きるはずがない」は危険な思い込みである
現代に、1903年とまったく同じ形の「人類館」が復活するとは限らない。
しかし、形を変えた人類館は起こり得る。
たとえば、ネット上で特定の地域や民族を笑いものにする。
外国人を犯罪者予備軍のように語る。
沖縄の基地問題を語る人々を「反日」と決めつける。
貧困層や生活保護受給者を怠け者として叩く。
少数者の権利要求を「わがまま」と切り捨てる。
これらは、見世物小屋ではない。
しかし、人間を対等な存在として見ないという意味では、同じ根を持っている。
「こいつらは普通の日本人とは違う」
「こいつらは劣っている」
「こいつらは国の足を引っ張っている」
「だから叩いてもいい」
この空気が広がったとき、社会は再び人類館事件を生み出す土壌を持つことになる。
戦争を肯定する時代に戻ることは、差別を正当化する時代に戻ることでもある
人類館事件を忘れてはいけない理由は、沖縄の人が差別されたからだけではない。
人間を序列化し、見下し、展示し、笑いものにする社会が、現実にこの国に存在したからである。
そして、その社会は、戦争や植民地支配を肯定する空気と無関係ではなかった。
戦争を肯定するということは、国家の目的のために人間を道具化することを認める方向に進みやすい。
国家に役立つ命。
国家に従う命。
国家に都合のよい命。
国家にとって邪魔な命。
このように命を分け始めたとき、差別は再び正当化される。
だからこそ、戦争を美化する言葉には警戒しなければならない。
「強い日本を取り戻す」
「誇りある日本を取り戻す」
「昔の日本はよかった」
その言葉の裏側で、誰が切り捨てられるのか。
誰が黙らされるのか。
誰が見下されるのか。
そこを見なければならない。
人類館事件は過去ではなく、未来への警告である
人類館事件は、昔の大阪で起きた恥ずべき事件である。
しかし、それを「大阪が悪かった」「昔の人が悪かった」で終わらせてはいけない。
問題は、社会が一定の条件を満たしたとき、同じような差別を何度でも生み出すということだ。
戦争を肯定する。
国家を個人より上に置く。
少数者を見下す。
異質な者を笑いものにする。
反対意見を非国民扱いする。
こうした空気がそろったとき、人類館事件のような差別は、名前と形を変えて再び現れる。
だから、私たちは言い続けなければならない。
戦争を美化するな。
人間を序列化するな。
少数者を見世物にするな。
国家のために個人の尊厳を犠牲にするな。
人類館事件は、過去の失敗ではない。
今を生きる私たちに向けられた警告である。
戦争を肯定する時代に戻るということは、
差別が「正論」として語られ、
排除が「国益」として語られ、
人間の尊厳が「仕方ない」として踏みにじられる時代に戻るということだ。
その先にある社会で、また同じような事件が起きない保証はどこにもない。
だからこそ、私たちは今、
「二度と戻らない」
と明確に言わなければならない。
何もできないし
ホントクソ
土人並べて動物園感覚やろ
大阪は上方なんやから沖縄やアイヌの土人見物は楽しい見世物やん
またやるか今度はトンキン土人も並べるわ
学校でも教えてないんじゃね
共産主義とか言う現在進行形の独裁主義の真実
米帝日帝は反省をいくらしても足りない
結局戦争を起こすのは都合が悪くなった権力者だと思うけど
ヨーロッパで流行ってんだよ
それを終わらせたのはだれだと思う?
皮肉なことにヒトラーなんだ🥴
低劣で下劣だとヨーロッパで禁止して人気を終わらせたの
とか言ってる奴らが差別反対とか言うからな
糞ですよね
ネトウヨはいつでもやめれるぞ
この世にサヨクがいる限り
差別は世界から消えることはない
ほぼそれに近い




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